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1. History

プロフィール

1971年 神奈川県川崎市に生まれる。

父親の転勤に伴い、生後3ヶ月で川崎から兵庫県神戸市にお引越し。
3歳の時に一度、同市内で住まいを変えたが、この後大学に進学するまでの間、
この街で青春時代を過ごすことになる。

高校1年の冬に、お年玉をはたいてギターを購入し、 プレイヤーとしての歴史が
始まる。でも、本当はドラマー志望。

大学に入学と同時に一人暮らしを始める。
埼玉県東松山市にお引越し(後に同県川越市に住まいを変える)。
入学してすぐに、JAZZ研究会に入会する。
バンド演奏、ジャムセッション、ビッグバンドなどを経験、現在に至るプレイヤー
人生の基礎を築くことになる。

大学卒業後、静岡県浜松市に本社を置くFMラジオ局に入社。
編成制作部に配属され、番組制作ディレクターとしてのキャリアをスタートさせる。
楽しいながらも厳しい職場で先輩や関係各所の方々に鍛えられる。

1998年、同じ職場に勤めていた女性社員と結婚。要は、社内結婚。

入社して丸6年、お世話になった職場を去る。
なんとも表現し難い就職活動を経て、同年暮れに現在の会社に入社。
今度は販売員となる。そして7年近く経ったある日。

不況の波が押し寄せる中、自身もその波に飛び込む決意を固め退社。
そろそろ仕事が決まらないと一家離散、という危機を乗り越えられるか?

現在の住まいは、神奈川県川崎市。故あって生まれ故郷に帰る。

MIDI検定3級 ライセンスNo.3080253
MIDI検定2級 ライセンスNo.208040

音楽に関するバックグラウンドは、このあと詳しく・・・

1.音楽との出会い

気が付いたら、歌ってました(笑)。 「ザ・ベストテン」、この番組が始まったのがいつだった のか 未だに正確には知らないのですが、小学校を卒業する頃までは これが私の知る「ポピュラー音楽」のすべてでした。 歌謡曲、ニューミュージック、演歌、のちにアイドル。 当時の日本の音楽シーンを語る全ての要素がいっぺんに 見聞きすることができた番組だったと思います。 毎週木曜日夜9時、そんな時間にテレビに合わせて大声で歌ってたんです。 隣近所に対して、両親はさぞかし恥ずかしい思いをしたでしょう。 テレビに出演拒否をするアーティストの曲は、ラジオでカバー。 「不二家歌謡ベストテン」「コーセー歌謡ベストテン」 「決定!全日本歌謡選抜」などなど。 当時のラジオは、イントロで曲紹介という洒落たスタイルは FMでも少なかった時代。私はもちろん「エアチェック」して 覚えたものです。これが極まって、小学校高学年の頃には「深夜ラジオ族」。 「MBSヤングタウン」。関西で育った同世代の方々はわかる方もいるでしょう。 私はこれにはまってました。 中学校に進学することを意識し始めた6年生。新しく増える科目、そう、 「英語」に対する興味を持ったのもこの頃。覚えるのは大変だろうなぁ、 でも、英語の歌を聴いていれば上達も早いかなぁ・・・誰でも考えそうな、そんなことを思っていたところに、クリストファー・クロス。 なんじゃそりゃ、と。しょっちゅうラジオでかかってたんですよ、 「ニューヨーク・シティ・セレナーデ」。 “Arthur’s Theme”、原題ですけど、何の関係もありません。 でも、子供ながらにいい曲だなと反応したわけです。この曲のイメージは「雨の日曜日、部屋から窓の景色を眺める」です。洋楽への架け橋は、透明感のある、クリストファー・クロスの声でした。

2.洋楽への目覚め

クリストファー・クロスに引き摺られ、洋楽の世界にやってきました。 卒業祝だったか、入学祝だったかでステレオなるものも買ってもらい、 おたく的な趣向へとエスカレートしてこうとしていた頃、 そのステレオで最初にかけられた洋楽とは、ずばり!マイケル・ジャクソン『スリラー』。うーん、めっちゃストレート!でも、今聞いてもいいアルバムだと思います。評価としてはこれよりも 『オフ・ザ・ウォール』の方がいいんですけどね。でも、お金がない中学生、そんなにしょっちゅうレコードが買える訳ではなく、 私はもっぱら「エアチェック」派。そして「全米TOP40」派。おかげでアメリカで売れてるシングル曲にはめっぽう強くなりました。 そしてこの時代を語る時に外せない要素だと思うのが「MTV」。 言わずと知れた音楽専門のテレビ局(という表現でいいのかな?)。これが開局したのと同時に、ビデオクリップと呼ばれる音楽作品が 続々と作られるようになったのは、音楽ファンならよくご存知ですね。小林克也さんの「ベストヒットUSA」も、当然見てました。「SONY MUSIC TV」、覚えてますか? ビデオクリップばっかり流していた深夜テレビ番組です。高校生の時に録画した「ハードロック/ヘヴィメタル特集」は保存版です。 今振り返ってみると、この時期の洋楽を囲む環境はとても良かったと思います。いろんな時代の、いろんな曲をいっぺんに見聞きした気がします。おかげで、未だに時代考証がムチャクチャになってます。現在まで活躍を続けるアーティストがデビュー、もしくはブレイクしたのも この頃が一番多いのではないでしょうか。その一方、洋楽偏向の音楽ファンが 多いのも、この頃をリアルタイムで通ってきた私を含む世代なのかなとも。

3.一大事件!?

そんな洋楽の良い時代は、長くは続きませんでした。少なくとも私にとっては。アメリカにも「アイドル旋風」が巻き起こったのが中学3年になる頃だったと 記憶してます。名前は思い出せませんが、10代の女の子シンガーが 揃ってデビューし、ヒットを飛ばしました。 日本ではすでにたのきん・聖子の時からアイドルが主流の音楽シーン。 そのすき間を良質のニューミュージックが埋める、演歌は衰退の兆しを 見せていました。そのアイドルも、出せば売れる時代ではなくなった頃に、 全国の中・高生男子を巻き込む一大センセーションが起こりました。 ピーンと来た方、あなたも同類ですか?そう、「夕やけニャンニャン」。 ♪セーぇーラぁー服を 脱ぅーがーさーないでっ 最近はDVDのBOXセットも発売されて、買った人もいるでしょうか。おニャン子クラブは、私の青春の輝かしい1ページとなってます、ハイ。ちなみに、関西地方では東京よりも3ヶ月ほど遅れて放送開始。すでに会員番号に欠番が出ていました(笑)。 新田恵利→河合その子→高井麻巳子→? 私のファン遍歴です(照れ笑)。えっ、趣味悪いって?ほっとけ! そんな「夕やけニャンニャン」が、私の音楽人生にとてつもなく大きな影響を及ぼしているという話は次の項で。

4.プレイヤーおたくへの道、開く

国内・海外の音楽シーン、いわゆる歌謡曲やTOP40ものが とてもつまらないものに思えていた頃、裏を返せば おニャン子一筋だったころ(?)の話。 ブラウン管の中でとんねるずの2人が、私たちを煽りまくっていた後ろで 絶え間なくかかっている音楽、つまりBGMに耳が行き始めました。毎日コーナーごとにかかっている音に、とても興味を持ち、 それが一体何なのかを探っていくと、カシオペアの「After School」だったり ザ・スクエアの「Feel Alright」だったりしたわけです。 結局はそれが、フュージョンとの出会いになるのですが、 当時は、そのサウンドの広がりに圧倒されたものです。レコーディング技術が飛躍的に進歩をするちょうどその時期に 制作された「歌がない、楽器の音が主役」の音楽に、心惹かれました。 高校入学祝いに、Hi-Fiビデオデッキを買ってもらい、同時に 「ザ・スクエア ライヴ」というビデオも買いました。 いやー、カッコ良く見えました。こんな風に演奏できたらなぁ、なんて 本気で思いました。本気で思ったので、ギター買っちゃいました。お年玉はたいて、3万3千円なり。ホントはドラムやりたかったんですが、 部屋に置けない、うるさくて叩けない、などの理由で断念。 安藤まさひろさんについて行くことに決めました。 ちゃんと教則本買って、3日で飽きて、その後はひたすら耳コピー。 聴いてなぞるということですね。そのために、過去の作品にさかのぼりました。 聞き覚えのある曲ばかり、そりゃぁ当たり前です。テレビ・ラジオの あらゆる番組で、テーマやBGMとして使われていたんですから。 そんなこんなで、楽曲レベルからさらに突っ込んで、プレイヤーレベルで 音楽を聴くようになってしまいました。自称「プレイヤーおたく」の誕生。 どのプレイヤーがどんなアーティストのアルバムやシングルで演奏しているか。 そんな聴き方、あんまりしませんよね。それを今もやってます。 毎日がブラインドテストです(笑)。

5.この人がいなければ・・・

リスナーとして、プレイヤーとして音楽を楽しむようになって1年。同級生にハードロックをよく聴いているのがいて、いろいろ勧められたのですが、 一言「みんな一緒やん」。ホントにそう思ってました、あの人に出会うまでは。 とある土曜の深夜、「パープルエクスプレス」というラジオ番組を知りました。成毛 滋(なるも・しげる)という名ギタリストがやっていた番組ですが、 その中で行なわれていたギター講座がとても良くて、伸び悩んでいたギターの腕を 引き上げてもらったような気がしています。 その番組で初めて聴いたのが、スウェーデンの当時はまだ若手だったギタリスト、イングヴェイ・マルムスティーンの「Far Beyond the Sun」という曲。「光の速さ」と書いて「こうそく」フレージングなのに、音がつぶれないで キレイだったことに、大変驚きました。この人をきっかけに、ハードロックや ヘヴィメタルにおいても「違いのわかる男」になりました。 当時の状況は、良くも悪くも「速弾き」ギタリストの時代で、数多くの ギターヒーローが現れました。イングヴェイに代表されるクラシカルなフレーズを 得意とした人がほとんどでしたが、要はそういうフレーズがハマりやすい構成の曲が 多かったというだけのことなんですけど。デビュー当時のインペリテリはひどかった! 当然、ギターのプレイスタイルもハードな方向へとシフト。目指すはイングヴェイです。指は速く動くようになりました。でも、フレーズにはなかなかできません。コピーなんて夢のまた夢、結局動くだけに終わりました。でも今に活かされています。コードチェンジも速くできるようになったのは相乗効果というものでしょうか。

6.大学時代(表)

勉強熱心だった私は、否、音楽に熱心だった私は、高校卒業後に予備校というところに入学、さらに勉学に励むこととなりました。大学生とも違う、微妙な開放感を満喫しつつ、適当に勉強してました。 とはいえ、大学の入学試験合格までと、一時期「ギター断ち」してたんですよ。でもね、ジェフ・ベックが来るとなったら関係ないでしょ、ね。この年の夏に、大阪城ホールに来たんですよ、『ギターショップ』トリオで。ついでに、ニール・ショーンとスティーヴ・ルカサーも見られたんですよ。豪華!特別授業は、当然サボりましたよ(爆)ベックさんの音は、城ホールを揺らしておりました。PAスピーカーのまん前に席をとった私の耳は、しばらく難聴気味になりました。でも、何気に気になっていたのはドラム。観客に対して右手側を向けてセッティングされていたので、結構動きが見えたんです。はずなんです。でもね、叩いていたのはテリー・ボジオさんです。残像しか見えませんよ(苦笑) そんなこともあったおかげで、無事大学にも合格しました、めでたい!とある大学の、外国語学部中国語学科に籍を置くこととなりました。幸か不幸か、非常に優秀な学生たちが集まったクラスに入ってしまい、平凡な私は勉学には苦労しましたが、人間関係は至って普通でした。今も付き合いのある友人にも恵まれ、ホントに充実した4年間でした。 って、たった5行かよっ!

7.大学時代(ウラ)

表とウラ、なんて「お前、性格にそんなのあったの?」と言われそうですが、クラスの友人たちは、とりあえずカラオケ程度の興味までだったので、そんなに音楽の話はしなかったんです。という訳で、音楽の話は私の所属していたサークル、「JAZZ研究会」でのエピソードに限られます。 前項まで、熱心に(?)読んで来られた方には、こんな疑問があるでしょう。「なんでJAZZ?」と。すべては、私のさらなる技術向上への欲求がこんな行動を起こさせたのです。 イングヴェイはインタヴューごとに、こんなことを口にしておりました。「ギターソロは少ないテイクでOKだ、しかもその場で即興でな」即興、インプロビゼーションというものを、それまでは意識したことはありませんでした。そりゃそうです、コピーばかりやってたんですから(笑)。でも、振り返ってみれば、自分の聴いていたのはインプロビゼーションである程度構成される音楽です。これができなきゃ上手くなれないっ!! じゃあ、インプロビゼーションを学ぶにはどうすれば良いのか?即興と言えば、ジャズだ!ジャズができるサークルはないか?あった!!入部しよう!!!!! そんな感じです(笑) 私と同学年で入部したメンバーも含めて、ある程度の人数になったこともあって、その数年前まで演奏していた形態、ビッグバンドを復活させようということが決まりました。 採り上げられたのは、カウント・ベイシー・オーケストラ。学生ビッグバンド、略して「学バン」が最も演奏しているのがこのバンドです。ギターも当然いるんです、が、正直すごーく脇役なんです。本物は「名脇役」なのですが、素人の私はただの脇役。さらには、ベイシー以外の著名なバンドにはギターすらいません。ピアノ、ベース、ドラム。これでOKなバンドがほとんどだったのです。 後に、ドラマーに転向するきっかけは、実はこれです。ビッグバンドのドラムって、かっこイイんです、ホントに!コードも覚えなくていいし、曲の盛り上げも結構ドラムのさじ加減というところもあって。3年の時に、正式にドラマーに転向しました。当時が、音量最大でした。一番練習した時期でしたからね。 入部後しばらくして、次々と発覚していくのですが、実は、このサークルでビッグバンドしか聴かない人なんていなかったんです。むしろ、ジャズそのものを普段あまり聴いていない人も!聴いていないというのは、全く知らないわけではなく、知識はあってあえて聴いてない、よく聴くのはブルースだったり、ファンクだったり、私のようにフュージョンだったり、J-POPだったり。でも、基本がジャズなので、聴き方がマニアックだったんですよね。おかげで、音楽の幅が広がりまくって大変です(苦笑)。 この項で書くと、ここが長文になるので、お気に入りのCDを紹介するところで折りを見て、このサークルでの音楽体験をお話ししようと思います。 5行で終わらせた「表」とは大違いです(爆)

8.仕事と音楽

無事に4年で卒業ができそうな雰囲気の中、私の就職先が決定しました。静岡県浜松市に本社を置く、某FMラジオの放送局です。一度は試験で落とされた放送局です。いろいろあって拾っていただいたんです。 もともとマスコミ志望、特にレコード会社を志望していました。ただ、ホントに勉強不足でした。マスコミの入社試験は時期が早かったんです。おかげで、ほとんど試験すら受けられずに断念したわけです。 運良く受けられたそのラジオ局では最終面接まで通過したのですが、落とされました。なにせ「アナウンサー志望」として試験を受けていたのですから、当たり前です。周りはアナウンサー養成学校で勉強してきた人たちばかりですから。方向転換して活動そのものをやり直し、夏にはちゃんとSE(システムエンジニア)の会社に就職を決めることができたんです。 新入社員の懇親会ということで、タダ酒をいただいてしまってから数日たったある日、一本の電話が入りました。電話の主は、落とされたラジオ局の人事の方です。「ディレクターとして採用を考えているのですが、どうですか?」一度はあきらめたマスコミですが、そう来られると非常に悩みます。「1日考えさせてください」と返事して電話を切り、大学の就職課へ相談に行きました。 「本当にやりたいことは決まってるんだろ」 そう言われて、「お世話になります」とラジオ局に連絡をして、SEの会社に内定辞退届けを書き、挨拶に訪れて頭を下げてきました。決して楽な就職活動ではなかったと思いますが、いろいろ勉強しました。 そんなこんなで、ラジオ局にディレクターとして入社することになりました。決め手は、入社試験の内容でした。全国でも珍しい「音楽テスト」があったんです。ミュージック・ステーションとしての方向性を明確に打ち出したものですよね。しゃべれるだけではやっていけないよ、ということです。周りはアナウンサー志望の人たちばかりでしたが、音楽に詳しい人はいなかったようです。最終面接の時に言われました。「君は、音楽試験だけは点数が良かったよ」一般常識はほどほどだったようです(笑)。そんな奴採用してよかったんですか(爆) 他の学生は最後の試験も終わり、卒業旅行に行こうかという2月、すでに下宿を引き払い、浜松に引越しをした私。入社前の研修がスタートです。私ももちろん、親しい友人と中国へ旅行する予定があったのですが、キャンセルです。無理もありません、ディレクターなんて短期間でできませんから。 なんとか番組の体裁を保てる程度になって、いよいよ4月。新年度の始まりです。自分の担当番組も決まって、緊張の中で仕事をスタートさせました。 と、ここで振り返ると、自身の音楽活動について何も書いてません。就職サクセスストーリーをつらつらと書いてきただけで、つまんなーい、ですね。 そりゃそうです、何もしてませんから。そんな暇はないほど、多忙でした。ようやく余裕が出来たのが入社から3年後。とある音楽雑誌の「メンバー募集」欄に地元・浜松の方の投稿記事が掲載されていました。フュージョンのバンドを 組みたい、ついてはドラマーを募集している、という内容でした。当時はまだ、e-mailなど普及してませんから、返信はハガキです。とりあえずお手合わせを、と出したら「決まったからまた機会があったら」と電話が。。。 しかし、せっかく決まったそのドラマーさんは早くも脱退。再度連絡がありました。お手合わせしてビックリ。みんな上手いんですよね。私の方も気に入られて、めでたく参加決定。後に「FREE CONCEPTION」と名乗ることになります。

9.存在理由

バンドに参加してから、いろんな演奏機会があり、人とのつながりもできてきました。浜松の音楽シーンは、優れたミュージシャンによって形成されているようです。それもそのはず、浜松は有名な楽器メーカーが本社を置く土地柄です。一流ミュージシャンの演奏を聴いて、その人たちを納得させる楽器を作っている人たちの実力が低いはずはありません。本当に上手い、プロでもいけるのでは? と思わせる人たちが多数います。 そんな中、いろんなバンド遍歴の中で知り合ったベーシストから、そのベーシストがひょんなきっかけで参加しているバンドに入らないかと誘いがありました。地元では結構名の知れた存在だったようで、浜松で開催されていたコンテストに出場した経歴もありました。参加する前に演奏を聞きました。曲は良いと思うのですが、ただ、ドラムが弱い。そこで私に白羽の矢が立ったというわけです。 とはいえ、私も歌モノははじめて。向こうのメンバーも、私の演奏をバンド練習のスタジオにわざわざ出向いてきて、聞いてくれました。あとから話を聞くと、「コイツでも違うかな」と思っていたそうですが、お試しということで参加OKということにしたそうです。試される身というのは 何かとツライですなぁ。 ほぼ同時に、もう一つの懸案事項だったギターも決まり、いよいよこのバンド、「レゾンデートル」の活動がさらに本格化していくわけです。この項のタイトル「存在理由」のフランス語訳が「レゾンデートル」、ということです。 このバンドは、私にとって非常に重要なバンドのひとつになりました。一体何本のライヴで演奏したでしょう。単独ということはあまりなかったのですが、 対バンでいろんなところで演奏しました。おかげで、私自身ライヴにも強くなりました。このバンドで上手くしてもらったようなものですね。 今のところ、私の唯一の「公式録音」となる、自主制作のアルバムも出してます。このサイトで試聴できます。ご希望とあらば、購入もできますのでぜひどうぞ!って、宣伝しておりますが(苦笑)。 残念なことに、私の全く個人的な都合で脱退することになるのですが、今でも仲良くしてもらってます。感謝してもしきれません。

10.そして、現在・・・

現在もラジオ局で働いてます、というのは違って、実はまる6年在籍した後退社しました。 自分の中で思うところがありまして、せっかく拾っていただいたのにも関わらず、ましてや自分の奥さんまで見つけたにも関わらず(?)、です 退職金ももらい、職業安定所で職を見つけて再就職し、そこの店主とケンカして2ヶ月で辞め、 営業職でさらに再就職したものの、仮採用期間のうちに契約をとれずにクビになり・・・。 いろんな経験を積んだ後、販売員として再就職を果たしました。パソコンや、CD・DVDなど、いろんなものを販売して7年近く経過。しかし、不況の波に飲み込まれ、業態変更をせざるを得ない状況に。その行く末に不安を抱き、 意を決して、私自身も不況の波の中へ。。。 年齢のこともあって、なかなか満足できる職に就くことができない日々が続いています。そろそろ誰かに拾ってもらえないと、一家離散ですw そんなこともあり、バンド活動はほぼ「開店休業」状態です。これを機会に、曲作りに専念してみようかな、などと思ってもいますが、 やはり生演奏に代わるものはありません。またバンド活動を復活させたいと思ってます。 お近くのかた、ぜひお誘いくださいませませ。